やり場のない喜び

私事ではありますが、さる8月13日に交通事故を起こしました。
車同士の事故でしたが幸い相手さまにケガはなく、物損事故となりました。
住職自身も脳みそや首や背骨に損傷はなく、むかし折った尾てい骨を打ち付けて痛みが戻った程度ですみました。
ただ私の身代わりに愛車のワゴンRが廃車になってしまいましたが・・・

長いお付き合いの檀家さまはご存じかもしれないのですが、実はお寺に入ってから車を壊すのは二度目です。
一度目は2007年9月12日(長女の産まれる5日前!)で、車を一回転させてしまいました。
この時も自損事故で被害者は出ませんでしたし、私自身もかすり傷だけですみました。

よく檀家さまからいただくご質問に「浄土真宗には無病息災や交通安全のご利益はないのですか?」というものがあります。
もし私が悪いお坊さんなら「うちのお寺は交通安全のご利益があります!車を大破するほどの事故を二度起こした私が、骨折一つしていないのが証拠です!!」とでも申せたでしょうが、さすがにそれはできません。
阿弥陀さまの願い(ご利益)を突き詰めますと、「すべての人間を一人残らずお浄土に迎えたい」ということにつきますので、交通安全や無病息災、金運向上や学業成就などは本意ではないからです。

皆さまも普段の生活の中で「やり場のない怒り」にかられたこともあろうかと思います。
誰に怒ることも出来ないが、腹が立って仕方がないというアレです。
私もしばしばそのような気持ちを持つのですが、二度の事故後に反対の気持ちを持ったことがありました。
つまり「やり場のない喜び」です。
実際には「丈夫な体をくれた両親」「丈夫な車を作ったスズキ自動車さん」「冷静に対応下さった事故の相手さん」などに「有難う」という気持ちを持っているのですが、事故後すぐの興奮した状態ではハッキリしないものです。
ただやみくもに「有難い有難い、良かった良かった」と思ってしまうのです。
救急車で運ばれた病院から帰った後、真っ先にご本堂に上がり阿弥陀さまに「今回も助かりました。有難うございます。」と申しましたが、「そんなん私の利益ちゃうで」と突き離すのではなく「良かったな!」とおっしゃって下さっているように感じました。

ご利益やお願い事は、与えられたり、叶えられたりすれば「有難い」となりますが、叶えられなければ「こんなにお願いしてんのに、なんで聞いてくれないんだ!!」という怒りが生まれかねません。
少なくとも私の狭量な心ではそうなってしまいそうです。
そのような浅ましい自分を見つめるにつけ、「ああ浄土真宗でよかった」と考えるのです。

事故車